ヨブ・神の不在・愛
2017年6月9日(金)不幸のために、しばらくの間、神がかくれて見えないことがある。死者の不在よりも、もっと不在であり、真の暗闇である土牢の中の光よりも、もっと暗くて見えないことがある。たましい全体が、何かぞっとするような恐ろしさの中にひたされている。このような不在のときには、何ひとつ愛することのできるものがない。何よりおそろしいのは、このように何ひとつ愛しうるものがない暗夜にあって、もしたましいが愛することをやめるならば、神の不在が決定的になるということである。たましいは、空しく愛することをつづけるか、少なくとも、せめてたましいのごく僅かな部分においても、愛しようとのねがいを持ちつづけるかしなければならない。このようにして、いつかある日、神がご自身のみ姿をあらわしたまい、この世の美しさをたましいに教えてくださる日がやってくる。ちょうど、ヨブの場合もそうであったように。
〔シモーヌ・ヴェーユ〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
177頁
「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(ヨブ19・25)
「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。」(ホセア12・6)
「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」(詩篇42・11)
不幸の日も、わざわいの日も、なおも神さまを愛し、神さまを待ち望もう。
いつかある日、神さまはご自身のみ姿をあらわしてくださいます。この世の美しさを私の魂に、全存在に、教えてくださる日がやってきます。