母性的な女
2017年5月26日(金)

今日の文化はよくいわれるように男によって作られているだけでなく、女性的・母性的要素を大巾に排除し、それによって非人間化しているからである。人間の姿を構成するのは男と女である。女が欠ければ、人間がいなくなり、―逆説的に―男もいなくなる。したがってわれわれの文化をふたたび人間的にするには、ふたたび真の男たちを生み出すべきであるし、また特に女性的・母性的要素をとり入れなければならない。
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むしろ必要なのは、一人一人の女が自分の中に「大いなる母」を再発見し、父性的な男との絶えざる呼応の中でそれを実現することである。
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母がそこにいるということにくらべれば、母がなにをし、なにをいうかは重要ではない。
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彼は愛情をもった母の顔を見つめ、その庇護の手を感じ、母が昼となく夜となく、部屋に、庭に、トランプのテーブル、病人のベッドのかたわらにいることを知っている。かつてそこで彼は育てられたのだ。庇護される経験をしたのだ。そこで彼は、一人の人間に全幅の信頼を寄せることがどういうことであるかを知った。

〔テーオドール・ボヴェー〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
160頁

多くの教会は女性の数が男性の数に比べると多いように思います。私たちの教会も比較的女性の数が多いですし、前任の教会もそうでした。前任の教会は役員さんも女性の割合が半数となっていました。今の教会はなぜか役員はみな男性です。
女性の存在、母性の存在の大きさを思います。女性や母性の役割、大きな意味は、行動よりもその存在にあるということでしょう。
ローマ・カトリック教会や東方教会、またルター派の教会、改革派の教会においては、マリヤさんへの崇敬、崇拝があるようですが、女性の存在という点では案外教会というところにおいては重要なことかもしれません。


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