イエスの十字架を愛する者は少ない
2017年5月12日(金)今やイエスの天国をしたう者は多い。しかしその十字架をになう者は少ない。
イエスから慰めを望む者は多い。しかし苦難を望む者は少ない。
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しかしイエスのためにイエスを愛して、自分の特別の慰めのためにしない者は、あらゆる苦難と心の苦悶の時にも、最も大きな慰めの時に劣らず、彼をあがめる。たとえ彼らに慰めを与えようとしなくても、彼らは常にイエスをたたえ、常に感謝をささげよう。
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常に慰めを求める者は、すべて雇われ人と呼ぶべきではなかろうか。〔トマス・ア・ケンピス〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
146頁
神さまからの慰めを求めず、ひたすら神さまに仕えること。報いなしに神さまに仕えること。それは誰よりも自分のために大きな慰めをもたらしてくれるのです。
慰められるということが、自分の平安の根拠になっているということは、慰められるということに支配されているのです。神さまの慰めは、無限です。しかしその慰めを自分が感じることができるかというと、人それぞれです。感じられるように努力することや修行を積み重ねることも大切ですが、しかしそれでも感じられるということが根拠となって平安が生まれるということですから、結局のところ自由ではありません。
それを感じることができてもできなくても、神さまを愛し、神さまの仕えることができればどんなに自由であるだろうか、と思います。
信仰生活に、また人間に必要なものは、すでに注がれている神さまからの愛をしっかりと受け止めるための修練、そして自分が神さまの愛を感じられるか感じられないかといった自己中心からの解放のためにすべてを委ねること。そんなところでしょうか。