神は「ひとりぼっち」を欲しない
2017年5月10日(水)わたしたちがここに集まっているのは、音楽会の聴衆のように独唱を聞くためでもなければ、一人一人別々に自分の生活のために何かを得るためでもありません。わたしたちは、たがいに神をあがめ・たがいに神の御言を聞くためにここに一緒にいるのでありまして、それはこの御言を通してわたしたちがもはや単なる人間の集団ではなく、互いに一体をなしているところの群れ、神の民であり、キリストの教会であるということをさとらんがためです。
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「わたしは好んで独りでおりたい」、「私は誰にも自分のことを知られたくない」というこの個々別々に生きること、この傲慢な悲しむべき独りぼっちは、神の欲し給わないところであります。キリストはこの独りぼっちをなくするために来られたのです。もしあなたが独りぼっちでおり、傲慢で他人とはなれていることを好むならば、神はあなたがもう傲慢でなく、独りぼっちでないようにもう一度教え直し給うでありましょう。〔エーミル・ブルンナー〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
144頁
教会に来られる方の中には、神さまとの関係は求めているが、他人との関係は求めていない、という方がおられます。しかしキリスト教信仰は、教会と切り離すことはできないので、この教会という共同体のひとりとして生きることがどうしても必要となってきますので、いずれともに神さまを礼拝する人びととの交わりが生まれてきます。もちろん苦手な人と無理やりに交流しなければならない、などということはありません。
ひとりぼっちでいたい、という気持ちは、私の中にも少なからずあります。しかしそこに傲慢があるとブルンナーは語ります。イエスさまにほんとうにお出会いしているならば、他人との交わりの中に、私たちはみな招かれています。