聖霊とは何ぞや
2017年5月3日(水)処が或日一生懸命に祈って居ると、不図絵にかいたように、神と自分とが父と子との関係にて、近く居る有様を示された。私は渇ける時に清水を得たる思いがして、嬉しくて堪らず、どうか其の絵を見失うまいと、苦心しました。此んなことがあって以来、不思議に私の頑固な心は砕かれ、神は至って近く私の側に在すことを感じ始めました。それで私も他人のする如く、洗礼を教会に志願すると、其の準備の会にて、「聖霊とは何ぞや」という問いを出されました。
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私は唯、「私を此(ここ)迄導き給うた方が、即ち聖霊であろうかと思いますが、其の外には何とも言えませぬ」と、有の儘に答えをすると、試験掛の長老が、「もう少し何か言えそうそうなものですね」と言われた。しかし私は、「それ以上、何も言えませぬ」と答えた故、「どうも困る、これでは未だ洗礼は早過る」と言うのを、植村氏が聞咎(ききとが)め、「いや、それは佐藤さんの言うことが本当らしい。一体初心の者が聖霊という如き問題に就いて、滔々(とうとう)と人から習うた通を請売りするなど、余り褒めたことではない。自分に実験のないことを理論ばかり巧みに述べるのは、宗教学校の弊である」と言うて、心持よく私の受洗を許されました。此は私が十八歳の時の事であります。〔山室機恵子〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
137頁
救世軍に身をささげた山室軍平の妻。
私をここまで導いてきてくださったお方が、ご聖霊さまであろうと思いますが、それ以外には何とも言えません、というこの言葉に聖霊さまのお働きの中にある人の姿があらわれているのだと思います。昨日のティーリケの言葉のように、私のうちに起る体験は副産物であって、それよりも大切なことは、私に対して起こること、神の歴史として私の外側から出会うこと、です。