キリストに負われる
2017年4月23日(日)
私は復活の主が、いつも眼には見えざる十字架を負いい給うことを知った。これは非常なる喜びである。復活の主は、自ら自由に歩みい給うのである。
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基督を衣るという言葉は、すっぽりと封筒の中に入れられ様な姿をいうのである。私はも早や基督の中に隠されて外には見えない。基督がすっかり私を負ってい給うからである。だから基督と共にということは、むしろ基督に負われてゆく幼児の様なものである。まったく安心して親の背中に負われてゆくのである。
〔澤崎堅造〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
125頁
教会のシンボルとして十字架が定着していらい、教会堂には何らかの形で十字架が飾られています。十字架のかたちにはいくつかのバリエーションがあります。また十字架にキリスト像がついているかいないかの違いもあります。
いずれにせよ十字架を見上げることで、私たちはキリストが私の罪の一切を背負ってくださったということを学びます。それは私自身がキリストに背負われているということを、また学ぶことでもあります。羊飼いに背負われた羊のように、親に背負われた幼児のように、私たちは神に背負われているのです。十字架と復活によって贖いの道を開いてくださった主イエスさまを見上げることにその事実を確認します。