十字架における友情
2017年4月16日(日)少しく人生を経験したものにとっては、我ら各自の運命は、究極において孤独である。
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我らはこの世の交わりに裏切られることしばしばなればなるほど、十字架における友情に永遠の期待をおかんとするものである。〔高倉徳太郎〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
118頁
主イエスさまの復活を心からお祝いします。今朝イースターの朝、主を礼拝する喜びにあずかり感謝します。
友という存在は、あらゆる利害関係のないつながりの一つです。人間はそのようなつながりをいただかないと生きていくのが難しくなります。詩人・八木重吉が詩集 『秋の瞳』の 「序」に次のような言葉を描いています。
「私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。」
キリストの十字架において交わされる友情に永遠の期待をおくと高倉牧師は語ります。主にある交わりとは、この十字架における交わりであり、それこそ教会の交わりであり、聖餐式ごとに確認される交わりです。