信仰の道理 イザヤ1・18
2017年4月5日(水)神は・・・いざ来たれ、議論を戦わせようと言われる。
・・・
良い材料を集め、順序正しく進むならば、必ず信ぜねばならぬ道理を発見するに違いない。だからキリスト教は決して議論を避けない。道理を重んずる。ただ不正確な、偏頗(へんぱ)な材料を忌避する。公平な判断ならば必ず歓迎される。
・・・
議論の相手を択ぶことが大切だ。議論の相手はまこと神である。これを相手にして戦わせねば埒はあかない。〔植村正久〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
107頁
イザヤ1章18節とは、新改訳で
「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」
新共同訳で
「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。」
です。
相撲を取る相手がまことの神さまであるならば、必ず人生の埒があきます。