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不幸な者へのまことの愛

不幸な者へのまことの愛
2017年3月23日(木)

隣人愛は、神から人間の方へとくだって行く愛である。それは、人間から神の方へと上って行く愛に先立つものである。
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たといたましいが、そのご臨在をどういう名で呼べばよいのかわからない時でも、不幸な者がかれら自身のために愛されているところならどこでも、神は臨在したもうのである。

ところが、不幸な者が愛されていても、ただ善行を果たすための単なる機会にすぎない状態で愛されているのなら、神は、どんなにあつい祈りがあっても、決して臨在しておられない。なぜなら、そのようなときには不幸な者は、その自然的な役割のうちに、ものと物質の役割のうちに閉じこめられているにすぎないからである。非人格的に愛されているにすぎないのである。だから、かれらの、無気力な、無名の状態のうちに、人格的な愛をもたらさねばならない。

〔シモーヌ・ヴェーユ〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
91頁

人格的な愛で愛し、愛されるところに、神さまはご臨在してくださいます。「善行を果たすための単なる機会にすぎない状態」をいかに避けるかが、教会の大切な取り組みの一つです。


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