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われらがなお

われらがなお
2017年3月21日(火)

われわれが神をまだ愛しなかったときに、神はわれわれを死に至るまで愛し給うた。
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天にいます父の愛は、それほどに完全であり、それほどに絶対的であり、それほどに徹底的・無前提・無私である。自分の生涯をふりかえるとき、私は、自分で自分を助け出したなどと、誇れる言葉を何ひとつ知らない。否、はかりがたい信実によって上から私に向かって差し伸べられ、あのあわれみの洗礼の水の中へと私を浸し、私のために十字架におもむき、パンとぶどう酒を私に差し出し、私の罪のためにそのパンを割き、そのぶどう酒を注ぎ給うたのは、あの御手である。永遠の愛によって動かされ導かれたあの御手である。

〔リュティ〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
89頁

何かを前提としている愛を教会が語っているならば、それは聖書の語る神さまの愛ではありません。信仰によって救われるということも、信仰という私のたちの行為によって、神さまの愛がある、神さまは私たちを愛してくださるということを語っているとすれば、それは聖書の語る神さまの愛ではありません。絶対的、徹底的、無前提、無私の愛が神さまの愛です。
信仰というのは、神さまの一方的な愛に心を開き、自らの全てをおゆだねすることです。


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