戦うて帰らん
2017年3月9日(木)・・・人の心は鹿の渓川の水を慕うが如く活ける神の許に帰らんとす。然れども人は戦わずして帰ること能わず。能く戦うものにして初めて能く帰るを得べし。これ事の一面なり、能く帰るものにして又能く闘うを得べし、此れ他の一面なり。戦わんが為に帰り、帰らんが為に戦う、人生の鼓吹力此の間に存す。・・・
〔柏井園〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
77頁
「キリスト教信仰に従って言うならば私たちの帰るべきところはきわめて明確であって、それはイエス・キリストに帰ること以外にはあってはならない。ただ私たちが帰るというときに、いやになってなまける気持ちや、あきあきした心で帰るべきではない。あらゆる高等批判から逃れ、進化論を避けてキリストに帰りキリストの前にひざまずかなければならないというならば、敬虔のかたちはあるかもしれないが、そこに倦怠の心が存在していることは否定できない。あらゆる高等批判を了解し、種々の疑問と戦ってのち、キリストに帰らないことには、どうして帰るということが実現できるだろうか。問題はキリストに帰るか帰らないかにあるのではない、キリストに帰ること、キリストによって神に帰ること、これは明かなことである。ただどのようにしてキリストに帰るべきであるのか、これが問題なのである。」
信仰は自動的に身につくものではありません。何の戦いもせずに信仰に生きることは出来ません。イエスさまのもとに帰るには戦いが必要であり、またイエスさまのところに帰ってからも引き続き戦いがあるのです。