審判と救済
2017年3月6日(月)人間が自己自身を「究極なるもの」と信じかつ僭称するか、それとも彼が自己を「究極なるものの中に」責任的に拘束されたものとしてみとめるか、これは彼が最後の審判を知っているか否かにかかっている。無神論的実存主義は、自由を絶対的無拘束性として理解する哲学である。それはそもそも同語反復(タウトロギー)である。なぜかといえば、彼の実存を神なしに理解することは、彼の自由を無拘束性として理解することを意味しているからである。しかしその自由を責任と結ばれたものとして認識する人は、まさにそれによって最後の審判を考えている。審判の思想がなければ、責任に関するあらゆる言葉は空しいおしゃべりになってしまう。
したがって審判の思想においては、結論として神を神として、そして人間を人間として厳密に考えさせられる。もし最後の審判がないなら、神は彼の御自身の意志を厳密に持したまわないであろうし、その場合、神はもはや理論的仮設や、統一的世界観の構成に必要な理念以上のものでなくなってしまう。彼はまた、御自身のためにわたしたちに意志を示し、その創造者の栄光をあらわし、そしてまさにそれと同時に、わたしたちに真の人間としての存在をあたえようと欲したもう啓示の神・主なる神でなくなるのである。人は思弁的・理論的に、審判などをもたない神の観念をもつことができるであろう。しかしこのようないわゆる神なるものは、生けるものとして自己を啓示し、啓示においてわたしたちに主として自己を知らせる神とはちがうのである。〔エーミル・ブルンナー〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
74頁
僭称=勝手に身分を越えて上の称号を自称すること。また、その称号。
同語反復=①主語が述語と同一概念からなる命題。②定義する言葉が定義されるべきものを言葉通り繰り返す定義上の虚偽。→トートロジー
「私は完全に自由だ、この自由はだれにも邪魔することは出来ないぞ」と縛られていることは、自由ではありませんね。
神さまという最後の審判の権威をお持ちの方のもとに「責任的に拘束的されたもの」として自分自身を置くところに本当に自由があります。
ちなみにこの書では「エーミル・ブルンナー」と表記されていますが、他の書物では「エミール・ブルンナー」と表記されていますので、ここではそちらに統一しています。