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真実を求める一人

真実を求める一人
2017年3月4日(土)

エレミヤの言う真実とは、現実を正視し、事実を事実として語るということばかりでなく、人間の真実を重んずる以上に、神の真実を重んずるのである。否、神の真実に信頼できればこそ、あえて人間の真実を求めて行くことができる。人間が、自己の真実を求めて行くことのできるのも、神の真実に支えられるという信仰があればこそである。
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ここにエレミヤの言う真実とは、もはや、ただ現実、即ちありのままの人間の姿のみにくい状態を正視するということだけではなく、それを越えた真実、不義をも変えて真実とする真実、嘘をも真と化する真実である。エレミヤ書の中には「永遠に忘れられることのない契約」という言葉が出てくるが、それは時代をこえ、歴史を貫く神の真実という意味である(エレミヤ50・5)

〔浅野順一〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
72頁

月に一度佐伯啓思という経済の先生の文章が「異論のススメ」という題で朝日新聞に掲載されます。毎回興味深い内容で楽しみにしている記事の一つです。3月3日付の朝日新聞には「『事実』は切り取り方次第」という表題で、深く考えさせられる文章が掲載されていました。この記事の最後に「われわれが頼りにすべきものは、『事実』そのものというより、それについて発言する人物(あるいはメディア)をどこまで信用できるか、という『信頼性』だけなのである」(朝日新聞3月3日、2017年)とありました。
これに続いて、「その信頼性を判断するのは結局われわれ一人一人なのである。われわれにその判断力や想像力があるかどうかが政治の分かれ目になるのであろう」(同)とありました。
「われわれにその判断力や想像力があるかどうか」。これは大切なことです。メタ認知ということも思います。この判断力や想像力を磨くことが人生ではないかと思います。
しかし自分の中の判断力や想像力にはどこまで磨きをかけてみても欠けがあることを思いますし、その欠けのあるもので判断して生きて行かなければならないとすれば常に事実に対する誤謬が生まれます。それも許容して生きて行くのが人生ではありますが、浅野順一の上記の文章は真実の求め方を鮮やかに示しているのではないでしょうか。
神さまはご真実なお方です。それは神さまは愛なるお方です、というのと同じことであるということをキリストは十字架で明らかにしてくださいました。


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