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聖書を読む父

聖書を読む父
2017年2月26日(日)

今でも思い出すのですが、旧約聖書の多分歴代誌であったと思いますが、人の名ばかり書いてある章があるので、私は父に向って、これはもう読まないでもよいのではありませんかと言い、次の章を読もうとすると、父は「とばさないでそこのところを読め」と私に要求したのです。そうして「聖書には無駄な文字は一つもないのだ、こんな箇所が聖書の中にあるということを知るためにも読め」というのです。

〔河上丈太郎〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
62頁

聖書を自分の考えの下に置くのか、それとも上に置くのか。自分の考えで不必要と思われるところは飛ばして読もうとすることは、聖書を自分の考えの下に置くことでしょう。それに対して、無駄と思えるところにも「こんな箇所が聖書の中にあるといういうことを知るためにも」と、つまり自分の考えにはないことを「知るために」読むということは、聖書を自分の考えの上に置くことでしょう。
聖書は自分の知識を増やすために読むものではなく、神さまを礼拝するために読むものなのです。


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