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やってみよう

やってみよう
2017年1月28日(土)

私たちの中にある「やって見よう」という動力は、実に私たちの創造(つくら)られたままの本体です。ひたすらにそれに従って生きる時に、あふるる恩寵の中に不思議な心の歓びを経験します。
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今私たちの精神生活の中に巣くっている「どうせ駄目だ」という動力は、人の肺臓の中に住んで健全な呼吸をする力を蝕(むしば)んでゆく黴菌(ばいきん)と同じことです。罪と称するのが適当だと思います。一番の罪の本源(もと)は何でしょうか。心を開いて神の愛とその力を呼吸することをしないことから来るのです。日光の照らす所に有毒の黴菌が育ち得ないように、私たちの心の内部(うち)がほんとうに神の光に照らされる時に、罪が育ってゆくことが出来ません。さきに育っている罪も死ななければなりません。それゆえにどうかして私たちは、絶えず私たちの霊の生(いのち)に入用なものが、我らの内部(うち)に入り来ることの出来るようにしなくてはなりません。

〔羽仁もと子〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
30頁

心の中に二つの動力があります。一つは「やって見よう」、もう一つは「どうせ駄目だ」。
やって見ようの動力で生きることが神さまの創造のままの生き方です。しかし罪が入って以来罪人でしかない私たちは「どうせ駄目だ」の動力に突き動かされています。
キリストの十字架と復活によるあがないの御業は私たちを本来の生き方へと導きます。
神の愛とその力を呼吸すること。
絶えず私たちの霊のいのちに入用なものが私たちの内に入って来るようにしましょう。


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