指導者、説教者のために
2017年1月21日(土)指導者を批判することはやさしい。なんでも終わった後ならばだれでもよい知恵が浮かぶものです。どうすればよかったかはだれでもわかります。前もって何をすべきかはだれもわからないのですが、そのような時こそ指導者は行動しなければならないのです。彼らをいつも批判するかわりに私共はたえず指導者のために祈りましょう。これは私共が指導者によって決められたことを何もかも無批判に受け入れなさいというのではありません。もし彼らが誤っていると思ったら、けんそんに愛をもって彼らに告げなさい。なかんずく、彼らのために祈りなさい。
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私共は、説教をするもののために、牧師伝道者のためにも祈らねばなりません。説教者たることはむずかしいことです。まず第一に、み言葉を正しくわかって福音を説教することには非常な責任が含まれているのであります。つぎに説教者は、容易ならない多くの誘惑にさらされています。それはうぬぼれか失望かどちらかで、このこのはみな説教者としての働きに成功するか、あるいは、みじめに失敗するかにかかっています。〔オー・ハレスビー〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
23頁
成功すればうぬぼれるし、失敗すれば失望します。説教者に限らず人間は皆そうです。しかし説教者にはそれが誘惑となるのです。自己中心という罪の誘惑になるのです。ですから説教者は祈られなければならない存在です。説教者のためにちっとも祈ることをしないで批判ばかりをしている信徒にならないで説教者のために祈る信徒となりましょう。
指導者は何をすべきかわからない時に決断を迫られる存在です。成功することもあるし失敗することもあります。指導者の失敗が見つかると批判者はそれを批判します。批判者はそれをエネルギーにして指導者をその立場から引きずり下ろし自分が指導者になろうとします。しかし批判者は批判することによって成り立っていた存在ですから、いざ指導者となると何をしていいか分からないので、うまくいきません。そのような指導者を大衆は批判し始めます。批判された元批判者の指導者は、そこで批判の対象を見つけます。すなわち大衆を批判しまじめるのです。こうして滅びてしまった政党、国、時代があります。
問題は批判者にならないで愛をもって祈るものになるということでしょう。
教会では為政者のために祈ります。