理性と祈り
2017年1月17日(火)理性の限界を誰にもましてよく知っているのは理性それ自身である。そして、理性は、自らが陥るアンチノミーをどうすることも出来ない。理性は神の実在を認識することが出来ない。しかも人間の内部には絶えず神を求めて止まない何ものかがひそんでいる。
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神の慈悲を得るために、人間に許されている方法は何であるか。それは、真心をこめた祈り以外には無い筈である。神は心情に於いてその実在が直観されながら、しかも、理性は神の実在を確実に認識することが出来ない。そこに人間の悲劇がある。この悲劇は、結局、祈り以外に解決の道はない。〔佐古純一郎〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
19頁
御使いはマリヤに懐妊を告げました。マリヤは処女にして懐妊しイエスさまを出産しました。理性では理解できないことです。理性で理解できないからそれを否定するのか。それとも理性で理解できないからこそそこに神さまの真理を発見するのか。
理性の限界をよく知っている理性に生きるとするならば、マリヤの処女懐妊、これは受け入れるしかありません。祈りの生活に生きるとき、この信仰に生きる道がはじまります。
理性が絶望を叫ぶ時も、希望に生きる道がはじまります。