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キリストにむんずと摑まれて

キリストにむんずと摑まれて
2017年1月11日(水)

パウロは、ここにキリストにおいて執えられると言っている(Ⅱコリント2・14)。キリストを執えるのでなくて、彼に執えられるのである。・・・我らがキリストを執えるというところに重心がおかれては、我らの信仰は弱く、偶然なものにあやつられやすい。しかしキリストに執えられるのである。ここに我らの信仰のたしかさがあり、必然がある。これは恩寵の把握だからである。
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キリストにむんずと摑まれて、まったく彼のものとなりきることである。
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どうしたら自分に克てるのだ、どうすれば自分の気分から自由になれるのだ。よろしい、自分に全く絶望せよ、自分にすっかり愛想をつかしてしまえ。みじんの自分に未練をのこすな。ただキリストとその十字架を仰げ、恩寵を待て。キリストは必ず、自分に絶望しきった我らをしっかりと執えて下さる。天下いずこにも、キリストに執えられることをよそにして決して真に自己に克つことはできないのだ。

〔高倉徳太郎〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
13頁

キリスト教信仰は、私がキリストを執えるのではなく、キリストが私を執えてくださることに重心を置くことです。それに対して現代プロテスタント信仰の多く、特に福音派といわれるグループには、私がキリストを執えるということに重点を置いているものがいかに多いことでしょう。その結果、恩寵が分からなくなっているグループがなんと多いことでしょう。

自分に重心を置くので、自分の気分に克てず不安なのです。この不安を利用してさらに自分に重心を置くことをすすめるもの、結果的にカルト化している教会もあります。

今日も、キリストが私を執えて下さっていることに重心を置いて、まことの平安の中に出発しましょう。


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