人々の安全地帯
2016年12月28日(水)人を裁いたり、罪人だと決めつけようとする欲求から解き放たれる時、私たちは、互いの弱さそのままに出会うことの出来る安全な場所となり、互いを隔てる壁を取り去ることが出来るに違いありません。
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私たちが隠れた目的や、言わずにいる意図など持たず、自分のために利益を得ようともしておらず、ただ平和と和解を望んでいるのだということを人々が理解した時、人々は銃を戸口に置いて、敵対する人と話す内なる自由と勇気とを見出すことでしょう。こういうことは、私たちが意図していない時でさえ、しばしば起こります。私たちの和解の働きが最もよく起こるのは、私たち自身がそれにほとんど気づいていない時だと思います。私たちがただ裁かずにそこにいる、そのことが和解の働きとなってゆくのです。
ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』
監修者・嶋本操、訳者・河田正雄、
聖公会出版、2001年11月22日第1刷発行、2015年1月17日改訂版第4刷発行、
424頁。
人々を和解させようと意図的に行動を起こすと、かえって敵対心を生み出してしまうことがあります。世界に起こる紛争にもそういうところがありますし、自分自身を取り巻く人間関係の中にもあるように思います。罪の世とはそういうことなのです。
神さまがいつも中心にいてくださることを見失っては、人間は何をもなしえないのです。
「人を裁いたり、罪人だと決めつけようとする」ことは、人間の「欲求」なのです。その欲求から解き放たれること、その自己中心から解き放たれること。それは神さまを中心に置くことによって可能となります。その時、私たちは「互いの弱さそのままに出会うことの出来る安全な場所」となります。そうして「互いを隔てる壁を取り去ること」が出来るのです。
「ただ裁かずにそこにいる」こと、です。