地獄についてのよい知らせ
2016年12月15日(木)神は自由の内に愛されることを私たちに望んでおられます。これは神秘です。神秘を保つため、こうした区別があります。この意味で、奇妙に聞こえるかもしれませんが、地獄があるという考えはよい知らせです。人間は、自ら選ぶということのないロボットや自動的に動く機械でもなければ、この世で何をしようとも最終には神の国に入るというものでもありません。
ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』
監修者・嶋本操、訳者・河田正雄、
聖公会出版、2001年11月22日第1刷発行、2015年1月17日改訂版第4刷発行、
411頁。
愛は自由とセットです。自由のない愛はもはや愛ではありません。この神秘の中に私たちは生きています。
神さまを愛する。神さまを選択する。そこに天国への道があり、天国があります。
私たちはどのように神さまを愛すればよいのかわかりません。イエスさまがこの地上を歩まれたユダヤの人びとは、律法を守ることが神さまを愛することであると考えました。しかしそれは容易に、律法を守ることの出来ない人びとを差別しさげすむ生き方を生み出しました。神さまを愛することと隣人を愛することは一つです。隣人を差別しさげすむ生き方は、すなわち神さまを愛する生き方ではありません。神さまを愛し、神さまを選択する生き方ではないということは、その先にあるのは地獄であり、まさのそこに地獄があります。
どのように神さまを愛すればよいのでしょう。どうすることが神さまを愛することなのでしょう。よい教えを学び、教理を理解し、律法を実践することによっても、神さまを愛することにならない人間。その罪人である人間は、自分たちではどうすることもできないのです。
そこに良い知らせがやって来ました。神さまの方から手を差し伸べてくださったのです。それがイエス・キリストです。まことの神であり、まことの人間であるイエス・キリストが私たちのところに来てくださったのです。
良い知らせというのは、それ自体がどんなによい知らせであったとしても、それを信じることがなければ何の意味もありません。イエスさまを信じることによって、この良い知らせを私たちのものとすることが出来ます。この良い知らせによって開かれた神さまを愛する道に生きるための、私たちはイエスさまを信じます。信頼します。
イエスさまを信じ、イエスさまを選択する所に、神さまを信じ、神さまを選択する、すなわち神さまを愛する道が開かれます。そこに天国への道があり、まさに天国があるのです。隣人を愛する道が開かれるのです。
イエスさまを信じるということが、単に教理を信じることであったり、イエスさまの教えを守るということが、かつて律法主義の中に陥ったパリサイ人たちのようであるならば、大変残念なことですが、イエスさまを信じていると言いながらも、天国への道に生きているとは言えません。さらには、イエスさまを信じているという道が、それを信じていない人びとを差別しさげすむようなことであるならば、なおさらです。
私たちはただイエスさまを信じ、イエスさまにゆだねて生きて行きます。そうしてまだイエスさまを知らない人びとに、愛をもってイエスさまのことを紹介します。そこで紹介された方がイエスさまを信じる信仰に生きて行かれるならば、この上もない喜びです。しかし信じることに到らないことも数多くあるでしょう。そんな時には、やがて信じられるのだとの希望を持って、私たちはただ愛に生きるのみです。