栄光のしるしとなる傷
2016年11月26日(土)イエスの復活は、私たちの体の復活の信仰の土台です。肉体は魂の牢獄であり、霊的な生活は牢獄から抜け出す道であるというようなことをよく聞きます。けれども、体の復活を信じる私たちは、霊的な生活と肉体においての生活とを分けることは出来ないと確信しています。
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体の復活とは、私たちが肉体の内に生きたことは無駄になることはなく、神と共にある永遠のいのちへと挙げられるということです。キリストが復活の体に苦しみの傷あとを負っておられたように、私たちの復活の体も苦しみのしるしを負っていることでしょう。私たちの傷は、復活の栄光のしるしとなります。ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』
監修者・嶋本操、訳者・河田正雄、
聖公会出版、2001年11月22日第1刷発行、2015年1月17日改訂版第4刷発行、
390頁。
聖書は霊と肉を分けて考える二元論を語りません。聖書の時代に霊と肉を分けて考えるグノーシス主義がありましたが、教会はその考えを受け入れませんでした。私たちは今生きている、そして神さまに生かされているこのからだと、神さまが注いてくださった霊とを分けて、どちらか一方が価値のないもののように考えることしません。霊と肉を一つとして、それを「からだ」と呼んで大切にします。
ですから復活とは、霊魂不滅という思想とは全く別のものであることが分かります。
今を生きる私たちには、喜びと共にさまざまな苦しみや傷がありますが、復活のいのちに生きるということは、そのような苦しみや傷も復活のいのちと一つとなって栄光に輝くのです。いえそのような苦しみや傷こそ復活の栄光のしるしなのです。