交わりの内に生きることの実り
2016年11月14日(月)聖徒の交わりに連なっている私たちは、たましいにとって価値のあるすべてのものは、個人的に成し遂げられたものではなく、交わりの生活がもたらす実りであるということを知っています。
神と神の愛についての知識、イエスの生涯、死、復活についての知識、教会とその働きについての知識はすべて、見返りを必要とする私たちの知性が作り出したものではありません。それは、イスラエルの民と預言者の時代、イエスと聖徒たちの時代、私たちの心を形作り育ててくれたすべての人々の時代、こうした長い歴史を通して、私たちに伝えられて来た知識です。真の霊の知識は、聖徒の交わりを通していつの時も伝えられてゆくでしょう。
ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』
監修者・嶋本操、訳者・河田正雄、
聖公会出版、2001年11月22日第1刷発行、2015年1月17日改訂版第4刷発行、
378頁。
プロテスタント・キリスト教会の中には、独善的と見える教会も少なくありません。それはどこか他を批判する上に成り立っています。かつてのローマ・カトリック教会を批判して生まれることとなったプロテスタント教会ですから、無理もありません。
しかし独善的、つまり自分たちの教会こそただいいのである、ということを主張する教会は、自分たちの読んでいる聖書をいったい誰が継承してきたのかを知らないでいるのでしょうか。
神さまがいわゆる御筆先のように記された聖書であれば、時代を超えての解釈も成り立つのかもしれません。ある時天から降ってきた謎めいた言葉を、最初に手にした人は十分に理解できなかったけれども、今を生きるものにとっては理解できるということも、確かにあるでしょう。しかし聖書は御筆先ではありません。信仰者たちが命がけで継承してきた言葉です。そうであれば最初に書かれた時の目的と意味があったのですから、それらを理解しなければなりません。まずどこで書かれたのか。それは教会で書かれたのです。
聖書が教会を生み出したのではありません。教会が聖書を生み出したのです。あるいは聖徒の交わりが生み出したといってもよいでしょう。今を生きる私たちの教会も、初代教会に始まり2000年のキリスト教会につながる群れとして、存在します。そのうえで聖書を読んでいかないと、聖書の真意が分からないのです。
独善的、つまり何かを批判することによって成り立っている教会であるならば、その批判するものがなくなったとたん存在の土台がなくなってしまいます。
私たちは他を批判して成り立つ教会ではなく、ただ神さまの愛によって成り立つ教会でありたいと思います。