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憐れみ、共に苦しむ権威

憐れみ、共に苦しむ権威
2016年10月26日(水)

教会は、しばしば私たちを深く傷つけます。宗教的権威をもった人々が、言葉や態度、命令などで、私たちを深く傷つけることがよくあります。宗教が生と死の問題に関わるものであるというまさにその理由のために、宗教に繊細な感受性を持つ私たちはいとも簡単に傷ついてしまうのです。批判的なちょっとした一言や拒絶の仕種、イライラした態度などが、それを受けた人々の記憶に生涯どれほど残ってしまうものであるかを、牧師や神父はほとんど分かっていません。

生きる意味や、慰めと励まし、許しと和解、回復と癒し、これらのものを探し求める渇きはあまりにも大きいので、いかなる形であれ教会で権威を持っている人は誰でも、次のことを絶えず思い起こす必要があります。すなわち、宗教的権威の性格を表す最もふさわしい言葉はコンパッション(共に苦しむ心)であると。イエスを常に見つめていましょう。イエスの権威は、コンパッションによって示されました。

ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』
監修者・嶋本操、訳者・河田正雄、
聖公会出版、2001年11月22日第1刷発行、2015年1月17日改訂版第4刷発行、
356頁。

憐れみという言葉に、どこか上に立つ者から下に向かっての「かわいそう」という雰囲気を感じるとすれば、この憐れみという言葉は本来の意味を十分に表現する言葉になりきっていないのかもしれません。しかしこれ以上にこの意味を表現する言葉が見つかりません。「misericorudia」「compassion」。
コンパッションは、「コン」(共に)と「パッション」(愛、苦しみ)が結びついたものでしょう。主イエスさまの受難も「パッション」という言葉で表現しますので、共に十字架を負うということなのだと思います。そこには上から目線はありません。むしろ理解(understand)、つまり「アンダー」(下に)「スタンド」(立つ)が土台となっています。

私たちはこのことを十分に理解しなければなりません。しかい自分には限界があるということがどうすることもできない現実としてあります。


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