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教会、しみなくまた、汚れたもの

教会、しみなくまた、汚れたもの
2016年10月17日(月)

教会は聖であると同時に罪深いもの、しみがないと同時に汚れています。
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キリストは教会を清め水で洗い、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない」(エフェソ5:26~27)ものとしてご自身のもとに迎え入れたのでした。しかしまた、教会は罪深く戸惑い、苦しみ悶える人々の集まりです。これらの人々はたえず肉欲と貪欲の力に誘惑され、常に対立と競争とに巻き込まれています。
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このような二つの考え方、言い方の両方を大切にする時に初めて、私たちはイエスに真に従う者の集まりである教会に生きることが出来るようになるでしょう。

ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』
監修者・嶋本操、訳者・河田正雄、
聖公会出版、2001年11月22日第1刷発行、2015年1月17日改訂版第4刷発行、
347頁。

聖でありしみのないのが教会である、ということだけを考えて教会生活に生きようとするならば、イエスさまに真に従う者の集まりである教会に生きることが出来ません。また教会は人間の集まりだからそこには罪があり汚れているのだ、ということだけを考えるならば、またイエスさまに真に従う者の集まりである教会に生きることが出来ません。

両方を大切にするのです。これは二つの部分があるというのではなく、重なっているというのが現実だと思います。聖の中にも罪を見、罪の中にも聖を見ることが、真実の教会生活に生きるために大切なことです。受肉されたイエスさまが教会なのですから。全き汚れのないお方が、この地に、そして私と共に歩んでくださっています。


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