キリストの体、私たちの体
2016年10月9日(日)聖餐に集まる時、私たちはイエスのみ名によって集まります。
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イエスは私たちの間におられ、またパンとぶどう酒のささげものの内におられます。この二つの現存の仕方において、どちらにも同じようにイエスはおられるのです。ちょうどパンを割くということの内にイエスのおられることが分かるように、兄弟姉妹の内にイエスがおわれることも分かります。「これはキリストの体です」と言ってパンを互いに与え合う時、「私たちはキリストの体です」と言って自分自身を互いに与えているのです。それは異なる二つの行為ではなく、与えるという同じ一つの行為です。与えられているのは一つの同じ体、一つの同じキリストです。ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』
監修者・嶋本操、訳者・河田正雄、
聖公会出版、2001年11月22日第1刷発行、2015年1月17日改訂版第4刷発行、
339頁。
聖餐式のおいて、そこにイエスさまが現存、あるいは現臨されているのが分かるのは、「割かれる」という行為、あるいは所作といってもいいかもしれませんが、そこにあるということです。ですから、牧師から受け取ったパンを、分かち合う時、そこにも「割かれる」という行為、あるいは所作がなされ、そこにキリストの現臨があるのです。
割かれることによって与えられたパンは、キリストのからです。同じ一つのキリストです。