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イエスの孤独

イエスの孤独
2016年7月31日(日)

死が近づいた時、イエスはもはや神の臨在を実感することが出来ませんでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。それでも、神が愛の内にご自分と共におられるという真理にすがり続けて言われました。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)。

十字架上で味わわれた孤独感を通してイエスは復活へと導かれました。年をとるにつれ私たちはしばしば、このイエスが味わわれたのと同じ孤独を通して、彼に従うように招かれます。この種類の孤独においては、神があまりに近くにおられるため、私たちの限られた心や精神では経験しきれないのだと思います。このような時が来たら私たちもイエスがなさったように、私たちの霊を神にゆだねることが出来る恵みを祈り求めましょう。

ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』
監修者・嶋本操、訳者・河田正雄、
聖公会出版、2001年11月22日第1刷発行、2015年1月17日改訂版第4刷発行、
261頁。

十字架上で叫ばれたイエスさまのお言葉は、他のすべてと共に真実に満ちています。

十字架ののち自らが復活することを誰よりもご存知であったイエスさまですから、この「わが神・・・」の叫びは絶望の叫びでありつつ、その絶望には見せかけ、あるいは嘘が混じっているように理解したくなります。しかしそうであれば、この叫びが不真実の言葉ということになるでしょう。

やはりイエスさまのこの叫びは、真実の絶望を経験しておられるのですから、神さまの臨在を実感できなかった、という理解が正しいのだと思います。

真実の絶望の中に身を置いておられ、そのような状態の中で「父よ、・・・ゆだねます」と祈られました。一縷の望みをかけて祈られたのではなく、何の望みも見えない中で、それでも信じる道を選択されたということでしょう。

父よ、ゆだねます、私のすべて、と、私たちも祈りの道に踏み出しましょう。


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