苦しむ社会でキリストに出会う
2016年7月19日(火)個人ばかりでなく、コミュニティーもまた苦しみます。
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これらの人々の苦しんでいる体の内に、私たちは苦しむキリストを見つけることが出来なくてはなりません。これらの苦しんでいる体もまた、選ばれ、祝福され、割かれ、世に与えられています。
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キリストは、私たちの世界の救いのために苦しみ、死なれました。ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』
監修者・嶋本操、訳者・河田正雄、
聖公会出版、2001年11月22日第1刷発行、2015年1月17日改訂版第4刷発行、
249頁。
ヨハネの福音書3章16節の「世」という文字の代わりに自分の名前を入れて読むことによって、自分自身の救いのためにキリストがこの世に来られ、十字架と復活のあがないの御業を成し遂げてくださったことを深く学びます。しかし、そうして自分個人の救いは分るのかもしれませんが、それによって「世界の救い」について、あまり考えられていないとすれば、聖書をかたよって読んでしまっていることになります。
私たちは世界に目を向けて、そこに苦しみを発見します。また自分の身近な世界に目を向けてそこに苦しみを発見します。その苦しむ共同体の中に苦しむキリストを発見しなければなりません。
身近な共同体の中に苦しむキリストを発見する時、そこに自らが遣わされていることを発見します。主にある者は、そこにあらためて遣わされキリストを大切にしようと献身します。