「求道者は、ポジティブな神学を受けいれれば、職場、ショッピングモール、企業式の教会までが網羅されている自己完結した世界に、いつのまにか入りこむことになる。どこへ行っても、耳に入ってくるのは同じメッセージだ―信じさえすれば、ショッピングモールの商品でも、立派な家や車でも、ありとあらゆるものを手に入れることができる、と。しかし、同時に低い囁き声もつねに聞えてくる。欲しいものが手に入らないならば、また、体調がよくなかったり、がっかりしていたり、落ちこんでいたりするならば、それはほかならぬ自分のせいだ、と。ポジティブな神学は、美の存在しない世界、神の超越性の存在しない世界、あるいは慈悲の存在しない世界を是認し、その完成を導くのである。」
バーバラ・エーレンライク、『ポジティブ病の国、アメリカ』、河出書房新社、2010年4月30日発行、179頁
「第5章 神はあなたを金持ちにしたがる」より
教会では、教会学校の子どもたちに、あるいは信仰に生きる兄弟姉妹たちに、祈りの大切さを教えます。どんなことでもお祈りをして神さまにお話しをしましょう、と。神さまは私たちの必要の全てをご存知であるから、私たちの祈りを聞いて、応えてくださる、と。
そうして、例えば、鉛筆が必要ならばそのように祈れば神さまは必ず与えてくださる、と教えてしまうのですが、このような宗教教育に少々疑問を持っています。神さまは、アラジンの魔法のランプのような私たちの使用人なのだろうか、と。そのような神像こそ偶像なのではないか、と。
この本は、佐伯啓思、『反・幸福論』の中に引用されていたことから読んでみようと思いました。興味深いのは、アメリカのキリスト教は、ポジティブな神学に冒されていて、従来のキリスト教徒とは、似て非なるものではないか、という問いかけです。
「教会成長」というセミナーや勉強グループがもてはやされるプロテスタント・キリスト教会。特に福音派といわれるグループの中では、このポジティブな神学に毒されたキリスト教が語られてきたのだ、ということが分かります。私もそのような事を考えていた者の一人であったな、と反省しています。
聖書を読めば、そこには、決してポジティブではないことが書かれています。悩みがあり、苦しみがあり、祈っても応えられないことがあり、それでも神さまのご栄光が現わされていることを知ります。「鉛筆のために祈る」無邪気な信仰も決して否定することではありませんが、それは「無邪気の域」においてのことでしょう。
キリスト教信仰をいただいて間もないころ、私を導いて下さったイギリス人宣教師は、次のようなお話をして下さいました。その先生が若い頃、隣の町で行われる集いに行こうとして、電車賃がなくて神さまに与えられるようにお祈りをした、祈っても電車賃は与えられなかった、しかし祈っている中で、神さまは、あなたには健康で立派な足があるだろう、と語ってくださった、それで歩いて行きました、と。
私の願い(願望)通りに実現する所にだけ祈りの恵みがあるのではなく、私の願い(願望)通りに実現しないところにも祈りのさらなる恵みがあるのです。
祈りは聞かれる、ということを教会は語るのですが、それは私の願望通りになるということではないのです。そもそも罪人である私の願望通りにすべてが実現してしまったらこの世界はどうなることでしょう。