つまり、人間の生命は自然に服するが、理性や精神は自然を超えでてこれを支配できる。こうして、科学と技術を駆使して人は自然の脅威から自立し、自然を変え、さらには社会を変え、自らの幸福をとどまるところなく膨らませることができる。窮屈な自然の制約から解放され、いっそう自由で幸福なよき世界を作り出すことができる。
こういう考えがでてくるでしょう。近代的な、科学的で技術的な世界観です。それが人間の自由や幸福の増大と結びついているのです。
普通、この近代的世界観はキリスト教の宗教的世界観とは対立すると考えられています。
しかし、決してそういうわけではありません。
第一に、人間の肉体的な意味での生命は自然に属して消滅するが、理性や精神において人間は自然を越えでて、これを支配することができるという発想は、それ自体がキリスト教的でしょう。肉と霊を分け、霊によって肉体(自然)を支配できるとするキリスト教的な発想がここにはあります。肉体を離れた理性や精神、つまり霊性はいっそう神に近いわけです。
さらに大事なことがあります。「この世界は最善ではない」としてひとたび神学的世界観が崩れたとしても、霊的である「理性」によって、人は自然を支配し、この世をよりよいものに作り替えることができるという、この発想そのものが、実は「最善説」の変形ともいえるのではないでしょうか。
「理性」の働きによって、人がいわば神の代理として神の意図を実現するわけです。神も人間の幸福を望んでいる。よりよい世界とは人間の幸福が増進する世界で、人はこの世を「最善」のものにする義務をもつということです。
となれば、西欧の科学や技術への深い信頼と執着は、実は、キリスト教的心情を背景にしているということもできる。これはヨーロッパよりもアメリカにおいてもっと顕著なように思えます。アメリカの科学信仰、技術信仰は、実は宗教的心情に支えられている、ということなのです。佐伯啓思、『反・幸福論』、新潮新書、2012年1月20日発行、205f
一般的にキリスト教を、霊と肉とを分けて考える二元論ととらえてしまうことは、無理もないことですが、それは西欧周りで変質してしまったキリスト教であって、本当のキリスト教は、霊肉二元論ではなく、もっと「からだの信仰」、つまり霊と肉とは決して切り離されるものではありませんよ、というものであると思います。ただ残念なことは、このように指摘されても仕方のないありさまが日本のキリスト教会、特に福音派と呼ばれるプロテスタントキリスト教会に蔓延していることです。プロテスタント教会の一牧師として大いに反省させられます。