「神はなぜ、人間が知性を持つことを嫌うのか? これが私の長年の疑問であった。」
(中村うさぎ 佐藤優、『聖書を読む』、文藝春秋、2013年発行、8頁)
もしかすると、神さまは知能を持つことを嫌っておられるのかもしれませんが、知性を持つことは嫌ってはおられないのではないかと思います。
知性とは何か
まず、知性とは何か。「知性」(intellect)は「知能」(intelligence)とどう違うか。ホフスタッターもこの二つを区別していろいろと説明しているが、いちばんわかりやすいのは、二つの言葉の使い道を見てみることである。「インテリジェント」なのは、人間とは限らない。「インテリジェントな動物」はいるし、「インテリジェントな機械」はある。しかし、「インテレクチュアル」な動物や機械は存在しない。「知能的な動物」はいるが、「知性的な動物」はいないのです。つまり、「知性」は人間だけがもつ能力である。
この歴然たる用語法の違いは、何を指し示すか。「知性」とは、単に何かを理解したり分析したりする能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む、ということだろう。知性は、その能力を行使する行為者、つまり人間という人格や自我の存在を示唆する。知能が高くても知性が低い人はいる。それは、知的能力は高いが、その能力が自分という存在のあり方へと振り向けられない人のことである。だから、犯罪者には「知能犯」はいるが「知性犯」はいないのである。(森本あんり、『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』、新潮社、2015年2月20日、259頁)