〔年の終り〕
2015年12月30日(水)
「わたしの時は御手の中に立っております」―たしかにまず、私の時は私に属してはおらず、時は貸していただいたものに過ぎず、いつでも解約の通告がなされ、取り上げられうるものです。そのとき私は尋ねられるでしょう、あなたはこうしてみると自分の時の中でいったい何者であったのか。今にしてみると何をあなたは与えられた時間の中で果たしたのか、と。
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私の時は従って、誰かが車中にあるいはどこかに忘れたか失くした小カバンのように、どこかそこらにあるものではありません。私の時は目に見えない手で投げられたボーリング用の球のように転がっていきはしません。それは風の中の白楊の葉のように震えることもありません。酔っぱらいのように千鳥足でよろめいて行くこともありません。私の時は立っています。支えらえています。担われています。確保されています。御手の中にあるもの、それは立っています。
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私の時は、誰か偉大なあるいは取るに足らない人間の手の中にもありません。私の時は結局私自身の手にはありません。私が自分を頼りにしていないことは本当に幸いです。私が自分の主ではなく、私の時が私の手中にないということは、よいことです。そうではなくて私の時、私の生の歴史、私自身は御手の中にあります。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、698ff。
私の時は、神さまから貸し与えられているものです。
それと同時に、神さまの御手の中にあるものです。
今を生きることは、神さまの御手の中にある瞬間を生きることです。
人生はその積み重ねです。
なんと幸いなことでしょう。
(祈り)
神さま、過去が、将来が、そして今この瞬間があなたの御手の中にあります。感謝します。