〔約束と成就〕
2015年12月21日(月)
「約束が成就されている」とは、約束が終わり、その代わりに今や約束されたこと自身が歩み入るのではなく、そうではなくてまさに「約束そのもの」が今や全く「完璧」になり、あいまいではなく力強くなるのです。
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アブラハム、モーセ、ダビデと他のすべての者たちは神との真正な、完全な交わりの中にありました。なぜなら彼らは、それが成就された約束であるかのように、暗い実行されなかった約束を信仰において把握していたからです。それゆえ、この彼らの信仰は、それが暗い成就されなかった約束への信仰だったにもかかわらず、神に対する彼らの義でした。
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神の人間との現実の提携が、本当の聖礼典が、本当の徴があります、それが周りを取り囲む闇と闘っているのです。それが旧約聖書の積極的な意味であり、そのお陰でそれは新約聖書と一つなのです。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、676f。
約束が成就に裏打ちされた約束であり続けるところにキリスト教信仰があるということでしょうか。
もし約束が終わって、成就の中に生きることになれば、それはもはやキリスト教信仰ではないということでしょう。
聖礼典のなかに、この約束に生きるしるしがあります。
私たちは、洗礼と聖餐によって、約束によって義とされる道に導かれています。
(祈り)
神さま、あなたの約束に生きることができ感謝します。