〔待降節―主の御母〕
2015年12月16日(水)
なぜ私の魂が主を崇め、私の霊が我が救い主なる神を喜ぶことが生じるのか、の理由が示されます。それが起こるのは何か勝手気ままな、自ら生じた高揚からではなく、それが起こったのは、彼、主が「小さなマリア」に、主が「主の貧しい教会に目を留めてくださった」からであります。
・・・
この神を私たちは必要としています。これが本当に神です。おとめの身分の低さに目を留められる、ただじっと見つめられる神です。何と素晴らしいことでしょう、そこには、神が私たちに目を留められ、御目を私たちに向けてくださることだけが必要なのです。
・・・
神の前では、神が私たちに目を留めてくださるということだけが必要です、これがたしかに一切であります。そこにおとめの出産の神秘がたしかにあり、そこに神の臨在がたしかにあります。
・・・
全天の天使たちはこぞって今やただこの一地点を見るでしょう、このマリアがおり、神が彼女の身分の低さに目を留められたことにより他に何も彼女に生じなかったこのところを。この小さな瞬間は永遠に次ぐ永遠に満ちており、天と地の間にこれより壮大なものは何もなく、かつて世界史において重要なものが生じたとしたら、それはこの「目を留めること」であります。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、668f。
神さまは、罪人である私たちに目を留めてくださいます。
そのことが、そのことだけが、私たちに喜びを与え、私たちの人生の祝福なのです。
バルトは、ここで「マリア」と「教会」を重ねて語っています。
(祈り)
神さま、あなたの愛のまなざしを感謝します。