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「そこで、マリアは言った。わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。 ルカによる福音書1章46,47節

〔待降節―主の御母〕

2015年12月15日(火)

魂が主を崇めるということが生じるところに、神の業があります。
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聖書の意味で神が人間を引き受けてくださるなら、そして私の魂は主を崇めます! と人が言えるとすれば、それは常に奇跡です。
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熱狂的な真剣さと熱狂、ユーモアのない熱心は世の中にありますが、喜びは?
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私たちが神を見出したら、あるいは神が私たちを見出してくださったら、神を私の救い主を私たちは喜ぶ、とマリアは言います。救い主は私たちの道の終わりに、岩登りや飛行の終わりに、私たちの楽観や悲観の終わりに、常に私たちを見出してくださる方でありましょう。その終りとは、私たちがただ一つのことしか判らないところ、つまり、神が私を助けてくださらないなら、私はどうしようもありません、と知るところです。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、666f。

世の終わりまでともにいると、イエスさまは私たちに語ってくださいました。
もう自分ではどうしようもないと目の前の現実に、そして自分自身に絶望するところでも、神さまはともにいてくださるのです。
その終りのところでも、あるいはその終りのところでこそ、私たちは安心して神さまに委ねること、神さまに期待することがゆるされています。

神さまを大きくするところに、すでに神さまの奇跡のみわざが起こっています。

(祈り)
神さま、あなたをあがめます。


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