〔待降節―主の御母〕
2015年12月13日(日)
神の約束「だけ」が信じられているところでは、神が「臨在して」おられる
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二人の女性、若い女性と老いた女性、二人の取るに足らない無名の人びと、無力で、人類の、この世の本質と存在の問題性全体に、世の力、権力、デーモンにまったく太刀打ちできない二人! ここで小さなマリアと老いたエリサベトはどうしろと言うのでしょう。
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受けた約束が一致しているため、二人が神に見出した恵みの必然性のため
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彼らは挨拶を交わす。それは、神の約束を受けた者自身として、相互に再び認識し合った人びとの間での比類のない挨拶であります!
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彼らに神の言を通して与えられ、心に語られた希望において共に一つの全体をなし共にいるところ、そこに教会があります。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、662f。
み言葉が語られ、その御言によって神さまの約束を信じるところに神さまはご臨在くださっています。
その臨在の中に希望と喜びをいただくこと。その希望において共に一つの全体を成し、共にいるところ、そこに教会があります。
教会はこの喜びと希望に生きるところです。
(祈り)
神さま、あなたのご臨在の中に希望と喜びを与えてください。