,

「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き・・・」。 ルカによる福音書1章16,17節

〔待降節―主の先駆者〕

2015年12月3日(木)

立ち帰らせる、人びとを己へと向ける、聞くよう人に呼びかける、それはいかなる人にもできず「それができるのは神ご自身だけです」。・・・しかし、神ご自身がそれをなさるけれども、神はそれをご自分の使者なしではなさらない。
・・・
ヨハネは、主に先駆けることで(彼の技量でではなく、彼の使命の力で)、人びとをただ待機させる、人びとを聴くよう強要する、人びとに不審の念を起させる、人びとにいわば注意の姿勢をとらせることができるだけです。
・・・
ヨハネが主あってこそ主の先駆者であるように、今や逆に言ってもよいのです。実際に主のこの代理人がいるところに、主は来られます。
・・・
この一つのことをじっと見つめなければなりません。全く落ち着いて、全く喜びに満ちて。使命はそこにあります。そして使命があり、それが信じられ、肯定され、把握されるところに、その戸口の前に主が立っておられます。この確信にあって私たちは出かけて行き、神の言(ことば)を伝えることが許されるのです。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、647f。

神さまが私たちを用いられるのは、神さまの手が足りないからではありません。ただ愛と憐れみのよって用いようとなさるのです。
神さまに用いられる人とは、この神さまに愛と憐れみを知り、ただひたすら神さまに注意を向けることに徹する人です。

(祈り)
神さま、あなたの愛と憐れみを教えてください。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: