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洗礼者ヨハネ

〔待降節―主の先駆者〕

2015年12月1日(火)

ヨハネは、唯一のキリストのお姿から自分の上に射す光を受け止めて、お返しするためにだけ存在しています。そのように全く従属して、全く人間であって罪人、全くひたすら仕えつつ存在することで、ヨハネは、彼以前に旧約聖書において神からの約束として真になったもの全体の総括であると同時に、彼以後使徒と福音記者たちの姿で、イエス・キリストにおいて生じた啓示の告知として真になるものすべての総括であります。
洗礼者はその双方、預言者と使徒であります。そしてまさに預言者と使徒としてヨハネはキリストに属しています。
・・・
神の人であることは、人間的な力あるいは技あるいは深慮の働きの一つではなく、神の人であることは、この人間である一人の人に人生途上で与えられている恵みなのです。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、644f。

洗礼者ヨハネの偉大さは、ひたすらキリストを指し示しているところにあります。
洗礼者ヨハネは預言者であり使徒です。
私たちは洗礼者ヨハネによって、主キリストにお出会いします。

(祈り)
神さま、待ち望みの季節が始まりました。待ち望む者として整えてください。


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