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「わたしたちは、神にはありのままに知られています。(私たちは皆キリストの裁きの座の前で明らかにならねばなりません!)」。 コリントの信徒への手紙第2 5章11節

〔キリストの裁きの座の前で〕

2015年11月28日(土)

使徒パウロの別な言葉によると、私たちは事態をただ鏡の中でのように、ただ大きな謎として―たとえ私たちがキリスト者であっても(あるいはあるだろうとも)―、眺めているのではなく、信仰においてのみ見ています。これが覆いです。この覆いはこれから一気に「取り除かれます」。私たちは明らかになるでしょう。私たちの人生にあって生じたもの一切の何一つ隠されたままではない、私たち自身の目の前でもそうではなく、他者の目の前でもそうではないでしょう。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、635f。

最終的な裁きの時があると聖書は語ります。
その時は、イエスさまの前に、すべてのことが明らかになる時であると語ります。
おのずと今の生き方が問われることとなります。

(祈り)
神さま、きょうもあなたの前に生きていることを覚えさせてください。


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