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「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」。 コリントの信徒への手紙第1 15章21節

〔死者の復活 ― 第1コリント15章〕

2015年11月15日(日)

「キリスト」は「第二のアダム」として「死者の復活の初穂」であられます。
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まだ主権行為は成就されていません。まだその力は他の最後から手前の諸力と逃走中であり、その限りで私たちは今その国にいて、あの最後のものを待ちうけており、しかもまさにまず「待ち受けつつ」あります。
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イエスの復活の意味の本質は、復活が私たちの現存在の神的領域でもある、ということにあります。
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偶然の現実の全く先が見えない壁の前に私たちは立っており、その見過ごされてはならない特徴は死ですが、その壁の背後にすでに新しい現実の命が、キリストのうちに現れて、しかも私たちのすべてに独自の命が立って待っています。
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神の啓示をキリストにおいて認識するとは、先取りした「成就」と思われるものの中ではなく、その「約束」の中に身を置くことです。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、609ff。

死者の復活は先取りした成就ではなく約束である、ということは、この約束の中に身を置かない限り死者の復活に生きることにならない、ということでしょう。
信仰に生きることなしに、復活に生きることがないのです。
信仰に生きることなしに、希望に生きることができないのです。
信仰に生きることなしに、尽きることのないいのちに生きることが出来す、それゆえ愛に生きることができないのです。
信仰に生きる者こそ、希望と愛に生きる者となるのです。

(祈り)
神さま、復活の希望に生きる者としてくださったことを感謝します。


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