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肉体の甦り ― 大きな躓き

〔最後の出来事〕

2015年11月14日(土)

死者の復活において問題なのは、「私たちではないもの」が「私たちであるもの」と「同一に置かれて」いつということです。死者たちは生きており、時は永遠、存在しているものは真実、物事は実在しています。その一切は希望において与えられているものに他ならず、従ってこの同一性を実行することはありません。
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時間の無限性を永遠と思い違いすることなく
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復活とは、パウロにより、あるいは反対論者たちにより、「肉体の復活」とは違った何かが理解されることもありうるということで、それはこの章全体においてどこにも前提とされていません。
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肉体の復活、ということはつまりこちら側とあちら側の二元性ではなく、むしろ双方の同一性、だが今やはり与えられておらず、直接確かめることなく、ただ希望すること、ただ信じること、まさにそれは明らかにあの統一性を引き破ることであり、スキャンダル、不条理、宗教的物質主義であります。それが以上に否定的に感じられようと、変りはありません。この障害が問題なのです。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、607f。

使徒信条において「からだのよみがえりを信ず」と告白します。キリスト教信仰は、霊魂のよみがえり、を信じているのではなく、からだのよみがえりを信じています。

霊魂は、生きている今も、死の後も、連続していること、不滅であるように思うことは、案外たやすいことでしょう。しかし肉体は死において確かに滅びるものであることが明らかにされますので、この「からだのよみがえり」は、人間の経験の中にあることではなく、ひたすら神さまの御手の中にあることなのです。
私たちは、それを信仰と希望と愛によって知る者とされました。

(祈り)
神さま、からだのよみがえりを信じる信仰に導いてくださり感謝します。


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