〔終わりつつある時〕
2015年11月6日(金)
なぜなら死は、人間の罪と罪過にくだされた神の審判の徴であるので、死は非常に恐れられなければならず、死は「眠りの兄弟」、あるいは私たちの友あるいは全く解放者などと言うことは、何の役にも立ちません。それはその不真面目さが現実を前にすればシャボン玉のようにはじける他はない常套句です。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、593ff。
信仰を持てば死を恐れなくなる、というのは本当でしょうか。あるいは信仰を持っていても死を恐れているのならば、その信仰は偽物である、というのは本当でしょうか。
私は、それは間違いではないかと考えています。
信仰を持っている者こそ、正しく死を恐れることができるのではないか、と考えています。
死への恐れがさまざまなごまかしによって失われるとするならば、そこには人間としてのより良い生も存在しないでしょう。
私たちには、死を正しく見つめ、正しく恐れ、そうして正しく生きる者となることが、大切なのです。
死への正しい恐れを持つからこそ、キリストの十字架と復活のあがないへの深い感謝を持つことができるのです。
(祈り)
神さま、死を覚えさせてください。