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私たちのために

〔私たちの死〕

2015年11月3日(火)

イエスの死は私たちに逆らってではなく、「私たちのために」なされました。そこで起こったことは、人間に対する神の敵対行為ではなかったのです。いいえ、逆でありまして、神は私たち自身をこの一人の方イエスにおいて永遠から愛してくださったから、それゆえ、神はイエスの中で私たちの古い人を、それがむろん、どれほど力強く私たちの中で生きて騒ぎ立てようとも私たち自身ではないのですけれども、帳消しにし、拒否し、十字架にかけて、殺しておしまいになったのです。
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あなた自身は新しい、神により愛され、選ばれ、救われ、受け入れられた人間です。
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かくて言われるのは、「深く思うこと」、私たちは死ななければならない、私たちはこの力の働きを大いに「喜び」、感謝してそれで生きる、私たちの生と死は、想像も付かないほど美しく、勝利を収め、素晴らしい状態であると、深く思うのです!
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賢明な知恵ある心は、生死において一切をひたすら神からいただき、神にこそ一切を期待することが許されている人間の朗らかな心であります。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、587f。

朗らかな心、それは神さまにこそ一切を期待することが許されていることを知っている人間がいただくことのできる心です。それが賢明な知恵ある心です。
私たちは神さまに愛され、選ばれ、救われ、受け入れられました。

(祈り)
神さま、あなたの十字架において示された愛を感謝します。


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