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決断としての宗教改革

〔決断としての宗教改革〕

2015年10月31日(土)

「決断」としての宗教改革は、今日の福音主義教会に「自らの」決断を問うでしょう。
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外的確認が全くなしに言わなければならない時も、言わなければならないでしょう。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、578f。

宗教改革は、いわゆる「プロテスタント教会」を生み出すために行われた改革ではありません。ただ当時のローマ・カトリック教会の信仰の在り方のいくつかに、否を言ったに過ぎません。その結果、ローマ・カトリック教会を破門されることになり、気がつけばプロテスタント教会と呼ばれる教会になってしまっていたのです。
この破門は、1990年代に解消されています。またローマ・カトリック教会は宗教改革時にカトリック改革を行っていますので、現在のローマ・カトリック教会の宗教改革時に否と言わざるを得なかった部分は、ことごとく改革されています。プロテスタント教会が自分たちの正しさを語ろうとして批判しているローマ・カトリック教会は、500年前のローマ・カトリック教会であったりしますので、ほぼナンセンスです。

それはさておき、宗教改革は決断として行われたのですから、この先どうなるかということは、一番大切なことではなかったということでしょう。使徒の働きの中に描かれている使徒たちも、先がどうなるかなどということは最重要なことではなく、その場その場で神さまにある決断をしています。

結果がどうなるかは神さまにすべてお任せして、その時、その瞬間、神さまに喜ばれる道を選択していく、その選択を決断する、それが宗教改革に生きる教会です。

(祈り)
神さま、すべてのことをあなたにお委ねすることができますように。


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