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撤回できない決断

〔決断としての宗教改革〕

2015年10月30日(金)

キリスト教の信仰への決断は、つまり人間の主である神に対する決断であります。ですから彼の、人間の時間は、もはや人間自身の手の中ににはなく、神の手の中にあります。かくて人間には将来の別な決断への道は塞がれています。信じないという自分の自由を現実に最終的に放棄したのです。
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あなたがたはすべきでない! というのでなく、あなたがたはできな! と言っています。
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あなたがたは神のものです! キリスト教の信仰への決断に由来して、人間は明白な、逆戻りできない動きの中にいます。この動きにつか(手偏に旧字の国)まれている人は、自分の取る方向について、母親を恋しがる子どものように勝手を言わせてもらうことはできません。
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今やこの方向でのみ存在し、それゆえこの方向にのみ将来を持つことができます。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、576ff。

私が神さまを選んだのではなく、神さまが私を選んでくださった、というのがキリスト教信仰です。キリストを信じるということは、キリストを私の主人にするということです。
その私の主人にするということも、自分の決断でありつつも、神さまの御手の中の御業であるのですから、「将来の別な決断への道」は塞がれています。
信仰に歩む者は、安心して神さまの御手の中に憩うことができます。

(祈り)
神さま、あなたの御手の中にあることを感謝します。


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