〔決断としての宗教改革〕
2015年10月29日(木)
決断した者は、自らを「縛った」のです。彼は今や然りか否を言わなければならず、これかあれかを意志し、ここかそこかに立たなければなりません。決断により縛られたこのような人びとが宗教改革者でした。彼らは決断したのです。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、575f。
一つの道を決断するということは、それ以外の道に否を言うこととなり、自らの生き方を縛ることになります。ですから決断しないという生き方も存在しますが、時の流れは人間には止めることができないので、決断しないという生き方は「決断しないという決断」をして生きることとなります。それも一つの縛りの中に生きることでしょう。
神さまの喜ばれる道を決断する者でありたいと思います。
(祈り)
神さま、あなたの道を歩ませてください。