〔決断としての宗教改革〕
2015年10月28日(水)
「宗教改革者たちの功績と偉大さ」は端的にいって次のことに見られます。教会では忘れられたか、半ば忘れられたいくつかの「キリスト教の真理」を再び表明し、それによって教会を再建したということです。すなわち、聖書の素晴らしさと権威、創造主である神の主たる威厳、罪ある人間の調停者であるイエス・キリストの威信、このキリストを信じる信仰の力、世にあるキリスト者の自由、真の教会の必然的謙虚と必然的勇気です。
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宗教改革者たちにはあの真理の純粋な教義が問題でした。それらの真理は実にキリスト教中世にもまったく未知ではありませんでした。それらの真理に、何らかの活動の機会を今日のカトリック教会も喜んで与えています。それは福音教会の後の時期にも教えられたと誤って思われていました。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、573ff。
プロテスタント教会は、使徒信条で「公同の教会を信じます」と告白しているにもかかわらず、自分たちの教会こそ正しいと思いこんでいることがあります。自分たちの教会こそ正しいと思いこんでいることは、公同の教会を信じている姿ではありません。自分たちの教会にも間違いがあるということを謙虚に思い、他の教会と共に歩もうとするために「公同の教会を信じます」という告白が利いています。
プロテスタント教会が自分たちこそ正しいのだというために引き合いに出すのがカトリック教会であることが多いのかもしれません。しかしそこで批判しているカトリック教会は15世紀ごろのカトリック教会であって、現在のカトリック教会ではありません。ですからかなり的外れの批判となっています。
カトリック教会は宗教改革によって16世紀にカトリック改革を行いました。また近年では1960年代に行われた第2バチカン公会議において大胆な改革を行いました。
それをプロテスタント教会では「後の時期にも教えられたと誤って思われて」いたのです。あるいはそのように指導者たちが教えてしまったのです。これはプロテスタント教会の怠惰と罪です。カトリックの皆さんにはお詫びしなければなりません。
「聖書の素晴らしさと権威、創造主である神の主たる威厳、罪ある人間の調停者であるイエス・キリストの威信、このキリストを信じる信仰の力、世にあるキリスト者の自由、真の教会の必然的謙虚と必然的勇気」が失われるならば、プロテスタント教会を標榜していても、もはやそれは福音的教会ではありません。またプロテスタント教会ではありません。
再来年にプロテスタント教会500年を迎えますが、そろそろカトリック教会と一つになってお互いに違う点ではなく、同じ点を大切にして、ともに礼拝と聖餐の一致に至らなければなりません。
(祈り)
神さま、エキュメニカルの道を歩ませてください。