〔教会における交わり〕
2015年10月22日(木)
自分のためでなく、自分自らを高めるためではなく、むしろまさに他の人びとと共同で働くために、一人ひとりに霊の啓示が与えられるのです(同7節)。
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人びとが本当に打ち解け合っており、耳を傾け合い、他者からの公の批判としてものを言ってもらえるところでは、人びとは謙虚であり、思慮深く、従って強く、深く基礎が置かれています。
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教会が全く謙虚なら、神の前だけでなくまさに人びとの前でも全く謙虚なら、その時だけ勇敢でありうるし、そうでありましょう。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、562ff。
教会は、謙虚に、この世の中に存在します。
教会は、共に働くために、それぞれに違った賜物が与えられています。そしてこの世に向って奉仕します。自分自らを高めるためではなく・・・。
謙虚があるところに、開かれた心があります。
教会がお互いに、またこの世に向って固く閉じられているとすれば、それは傲慢なのです。
教会は、謙虚に、この世の中に存在しているとき、勇敢です。
(祈り)
神さま、開かれた心を与えてください。謙遜ゆえの勇敢を与えてください。