〔教会における交わり〕
2015年10月21日(水)
体は「一つ」であり、体として「多くの」部分があるということは、多くの特別な交わりの事実が、教会にいるすべての人びとの包括的な交わりにおいて、悪いことではなく、正しく有益で必然であるという証人であります。一つの体は、まさにそれ自体ではなく、その外にではなく、その多くの「部分」において存在し生きるのです。
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パウロは人間的弱さを譲歩しただけではなく、一つの体の諸部分の多様性を見、従って教会内のすべての人びとの交わりに特別な交わりの多様性を見ると、神をたたえ、感謝をしたのです。
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人びとが「分派(セクト)」への途上にあるところでは、パウロが一つの体の多くの部分の必然性と正当性を言ったことによって、援護され正当化されたと、けっして考えてはなりません。
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すべての人びとも「中にあって」、教会にいるすべての人びとがこのような特別な交わりのどの存在と活動にも事実参加しており、それなしで済ましたくないということなのです。
ただし心がけるべきは、教会は一つの身体の一部で、従って現実に必要な生命器官であり、またあり続けることです! そうであるなら教会全体に、教会の生命にもこの特別性があるということで、神をたたえ感謝する機会があります。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、560ff。
教会はキリストのからだであるというとき、その教会とは一地方教会のことを語っているだけではなく、公同の教会のことを語っていると理解すべきなのでしょう。
私たちの教会も、多くの部分を持っている公同の教会の一つの部分なのです。
そしてその一つの部分は、地方教会のことだけではなく、「特別な交わりの形態」をも包括しているということでしょう。
「セクト」の誘惑から、教会は守られなければなりません。
(祈り)
神さま、公同の教会の一部分として、多様性と一致に生きることができますように教会を守ってください。