〔教会は聖霊の共同体〕
2015年10月16日(金)
「我は『聖なる』……教会を信ず」。聖なる教会(サンクタ・エクレシア)とは何なのでしょうか。語の聖書的用法に従えば、それは「分離された」の意味です。
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「私は聖なる、『普遍的な』……教会を信じます」。すなわち、公同の教会(エクレシア・カトリカイ)です。・・・神の一つの、聖なる、普遍的な民・・・キリスト教会が歴史全体を通じて「自分自身と一致して」不動であることです。
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教会を心ずること(クレド・エクレシアム)が言っていることは、私が所属し、信仰へと招かれ、私が私の信仰に責任があり、私が仕える共同体は聖なる公同の教会であると私は信じます、ということです。
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この共同体のいかなる醜いこと、いかなる「しわもしみ」も私をそれで惑わすことはありません。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、551ff。
教会的キリスト教でなければ、そこには真のキリスト教信仰が生まれることはありません。たしかに教会には沢山の欠け、しわやシミがあります。しかしだからと言って教会の存在を否定することはできません。私たちは「聖なる公同の教会」を信じるのです。
それを目に見えない教会を信じると置き換える場合があるのかもしれませんが、それは目の前の教会を否定することにつながりかねません。ですから目の前の欠けだらけの教会をしっかりと見つつ、その教会にしっかりと止まりつつ、聖なる公同の教会であると告白するのです。
欠けだらけの教会を、これはわたしのからだです、と語り続けてくださる主イエスさまをしっかりと見上げることなのです。その教会の一人が自分であることを見失わないということなのです。
(祈り)
神さま、あなたのお身体である聖なる公同の教会を信じます。