「罪」とは、それを認めることを拒み、神の栄光を讃美して神に感謝を捧げるのを拒むことである(1・21)。罪とは、神を抜きにして自分一人で生きてゆこうとすることであり、神を神として崇めることを拒み、自分を自分の神とし、みずからの有限な力だけを頼りに生きようとすることである。罪とは、自分が自然発生的にこの世に存在しており、自分一人の力で生きてゆける、と思うことである。・・・
ジェフリー・S、サイカー編、『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』、日本キリスト教団出版局、2002年4月15日発行、59頁
「咎」(とが)という言葉は、とんがっている、ということから来ていて、世間から突出していることを源としていると何かの本で読みました。ですから絶対的な正義に反することというのではなく、人と比較してちょっと変わったことや出過ぎたことを咎と呼ぶのです。その咎が、積み上がっていき、「罪」となるとのことです。ですから罪というのも絶対的な正義に反することというよりも、人に見られて出過ぎたことの積み重ねのことを言います。
こういう相対的な文化の中で聖書の罪を語り、その罪からの救いということを説いても、十分に理解されることではありません。まず聖書の語る罪とはいったいなんであるのか、を考えなければなりません。
上記の本は同性愛について様々な信仰的立場から語られた言葉が編集されたものです。その中での大切な論点の一つは「罪とはいったい何を指して言うのか」ということです。
罪とは人の前に問われることというよりも、絶対的な神さまの前に問われることです。ですから絶対的な神さまを信じなければ、正しく罪を知ることはできません。神さまを信じその神さまの前に立って、自らの中にある罪を知り、また自分自身が罪人であることを知るのです。
罪とは「十戒」(出エジプト記20章)やイエスさまの「山上の説教」(マタイ5章)を見ると明らかですが、それはある意味表面的なことです。罪のその根本的なありかたを考えると上記のように、神さま抜きで、つまり自分の力のみで頑張って生きていこうとすることなのです。そのような生き方は、この世では一見良いことのように見えますが、それがイエスさまを十字架にかけることとなりました。また神さま抜きのそのような生き方が、自分の人生を難しいものにし、さらには隣人と共に生きていこうとする道を難しくしたのです。素晴らしく倫理的で道徳的で、さらには信仰的に見える生き方の中にも、罪があるということを聖書は語ります。
自分中心の生き方こそ、偶像礼拝なのです。偶像礼拝の問題は、ただ異教的な習慣にあるのではなく、自分を神とするところにあるのです。私を含めキリスト者と呼ばれる人々の中にも、結局のところこの罪の中にある人々を数多く見かけるようになりました。大変残念なことです。
日々神さまを中心に生きる者でありたいと思います。